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| 作家、城山三郎さんが亡くなって1年がたちましたが、この1月に出版された遺作、亡き妻・容子さんの回想記の反響が、じわじわと大きくなっています。「読みながら泣きました」というメールがいきいき読者の方からも届きました。物語のような偶然の出会いに始まる夫婦の、美しいラブストーリー。その作品と父、城山三郎さんについて、娘の紀子さんにお話をうかがいました。 |
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70歳を過ぎて父は自らの戦争体験を語り始めました。
「いきいき」で城山三郎さんにお話をうかがう機会を得たのは、96年の夏でした。その年の10月号に掲載したお話のなかで、城山さんは2人のお子さんとはほとんど会話をした記憶がないとおっしゃっていました。お子さんが小さかったころには、お子さんたちが2階の仕事部屋に上がってこないように「階段の下にドアをつけて内側から鍵をかけてしまった」こともあったと。でも、お会いした紀子さんは、こうおっしゃいます。
「父は誰に対しても好奇心があって、私たち子どもに対しても、テレビを見ながら、いまってこういうふうに言うんだとか、こういう曲をきいているんだとか、これはどういう意味? なんて聞き、私たちともよく会話をしていました。ただ、自らの戦争体験を話して聞かせることはありませんでした。父が、ぽつぽつと自分の体験についても話し始めるようになったのは、『指揮官たちの特攻』を書き始め、その途中で母が亡くなったあと、70歳を過ぎてからです。
『つらすぎて言えなかった。でも話さなければいけないし、そのために生かされてきたんだと思う』と言って」
母のがんは、誰も予期しないことでした。
自宅から歩いて15分のマンションに構えた城山さんの仕事部屋は、いまもそのままに残されています。クリップで束ねられた自筆の原稿では、原稿の送信先と思われる名刺が添えられ、さまざまな書類や本とともに無造作に積まれていました。この仕事部屋ととなりの寝室などから、妻、容子さんとのことを記した原稿が見つかり、『そうか、もう君はいないのか』が出来上がりました。大筋は生前から担当の編集者の方に話され、すでにタイトルも決めてあったそうです。ただ、細かなところで、各章の順番があっているのかそうでないのかを確かめることはもうできません。しかし、この1冊は、読み進める者をとめることなく、夫婦の温かく深い愛情と、愛する人をうしなって生きることのつらさと切なさを、しっかりとこころに刻みつけます。
城山さんの妻、容子さんが亡くなったのは、2000年2月。がんと診断されたとき、容子さんは「癌が呆れるような明るい唄声で」、心配しながら緊張して診断結果を待っている城山さんの前にあらわれたと、書かれています。
※つづきは本誌で |
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