1999年8月、千葉智子さんの父、小児科医の中原利郎さん(当時44歳)は勤務先の病院の屋上から身を投げて自ら命を絶ちました。亡くなる前、中原さんは月8回の当直、週2回の32時間連続勤務という過酷な労働環境におかれていました。中原さんの遺書には、小児医療の過酷な実態が書き残され、最後は「この閉塞感のなかで、私は医師を続けていく気力も体力もありません」と結ばれていました。妻ののり子さんは小児医療の改善を訴え、2年後、労災の認定を申請。それから5年半を経た昨年3月、利郎さんの死は過労死と認められ、労災認定が確定しました。
父の死を忘れたくてがんばってきたつもりが、
父の道へとつながっていました。
千葉智子さん(26歳)
明るく温厚、信頼の厚かった小児科医の父はあこがれの存在でした。
私が小学生のころの文集を読み返すと、将来は小学校の先生になりたい、と書いています。二人の弟がいて、小さい子どもと接していたからでしょうか、子どもとふれ合う仕事がしたいと思っていました。でも、父が小児科医、母が薬剤師でしたから、医療を身近に感じていたことが将来を決める要因になったのかもしれません。小学生になったころ、父にはじめて採血してもらったときのことです。父は、注射針をこわがる私をやさしくなだめながら、痛いと思わせることなくあっという間に採血を終わらせました。処置もさることながら、私が不安に思う気持ちをうまく和らげてくれたことに、子どもながら感心しました。明るく、職場の周りの人たちからも信頼されていた父は、幼い私の自慢の父であり、そんな気持ちが、しだいに医師へのあこがれに変わっていったのだと思います。
家庭にいるときも父は私たちきょうだいの面倒をよくみてくれました。休日らしい休日も少なかったのに、弟たちのサッカーの相手をし、私の勉強もよく見てくれました。チラシの裏に図を描いて丁寧に教えてくれたことを覚えています。
父の死を考えないように。思い出すと涙が止まらず、考えるのが怖かった。
私が小児科医を志したのは、高校3年生になるときでした。父は大反対でした。そのころ、父は体力的にも精神的にももっともつらい状況にありました。勤務先の同僚の退職が相次ぎ、勤務時間が長くなったうえ、収益面での責任も負っていたようです。そんな環境でも、診療は一瞬の気も抜かずに続けなければいけません。私は今でこそそのつらさを想像できますが、当時は知る由もなく、父の疲労困憊した様子を大げさだと思っていました。そしてその年の夏、私が小児科医になることに反対のまま、父は病院の屋上から身を投げました。
なぜ自ら死を選んだのか。私は父の死を受け入れることができませんでした。受験勉強に打ち込み、父のことを考えないようにしました。思い出すと、涙があふれて止まらなくなり、考えるのが怖かったのです。
父が許してくれなかった道を進むことに悩んだ時期もありました。母は温厚だった父が涙もろくなったり急に怒り出したりする姿をそばで見ていましたから、どれだけ過酷な仕事であるかをわかっていたと思います。でも私には「賛成はしないけど応援はするから、あなたのしたいようにしなさい」といってくれました。
「自分の信じた道を進むしかない」。当初臨床医をめざしていましたが、高校生活が終わるころには、厚生労働省で医師の労働条件を整える仕事をしたいと思うようになっていました。父は医師として一生懸命がんばっていたはずです。なのになぜ死を選ぶことになるのか。自分たちのような悲しい思いをほかの人にはしてほしくないという気持ちが強くなっていたのです。
大学へ進み、小児医療の実態を知り、父を理解しはじめました。
父が残した手紙を読んだのは、大学の医学部へ進学した年のことでした。そこにつづられていたのは問題を抱える小児医療の実態。父はこんな環境で奮闘していたんだと、父の大変さがはじめてわかったような気がしました。母は、父の死を過労自殺の労災として認めてもらうよう講演などの活動をはじめ、小児医療の改善を訴えていました。その姿をみて、私は人に伝え考えてもらうことの大切さを知りました。専門職でなくても小児医療を変える活動はできる。私に必要だったのは、“なんのために小児医療に携わるのか”ということでした。
ある日、臨床の講義で配られたプリントに書かれた一文に目が留まりました。
「子どもには発達があり、未来があり、病気が治る可能性がある」
それを見たとき、ハッと気づいたのです。父はこのために命を削りながら仕事をしていたんだと。未来のある子どもたちのためなら私もがんばれるかもしれない。自分が本当にやりたかったことを気づかせてくれた瞬間でした。
※つづきは本誌で
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